異文化との出会いVol,1 (京都のぶぶ漬け)
アラブの親切はつとに有名である。
とくに旅行者など会ったばかりの人にさえ、大変な親切をする。
最初にオマーンのワヒバ砂漠でキャンプした時、近くのべドウイン(遊牧民)からお茶を振舞われ、あとから羊を屠った豪勢な一皿を届けてもらった時は驚いた。 同行のカウンターパートのアリに、「予め連絡しておいたのだろう」と質したが、「そんなことはない」とのことだった。 ラクダの血管を切って生血を振舞われたというドイツ人にも出会った。 こうした親切は、自然の厳しい荒野での相互扶助の習慣かと思ったが、そうでもない。 イエーメンの首都サナアの市場で財布を無くしたら、親切な人がいてタクシーでホテルまで送ってくれた時も感激した。 シリアのダマスカスの駅頭で大切な鞄をなくし途方にくれていたところ、「困っているあなたを助ける名誉を私に与えてくれ」という人が現れ、一晩泊めてもらった日本人のアラブ学者もいる。
ある時、アリと地方都市の市場調査に出かけ、途中彼の知人宅へ立ち寄った。 そこで、先方から「お茶はいかがですか?」と言われたが、アリはすぐに「さっき飲んだばかり」と断った。 先方が重ねて勧めると「今日は、暑くないから」と言い、三度目の勧めには「トイレが近いから」とまで言い募り、相手が「それなら食事でも」との申し出に、「それでは、お茶を一杯戴きます」と、ようやく笑顔になった。
その家を辞してから、早速アリにさっきの儀礼作法を聞いてみた。 彼は、この儀礼なしに「お茶を飲めば10年、食事をすれば一生、泊まれば孫子の代まで罵られる」と教えられたそうだ。 「でも、この前のワヒバ砂漠では、こんな遠慮しあう作法は必要なかったのか」と聞くと、「あの時は旅人との出会いの場、さっきは日常生活での付き合いの場で、まったく状況が違う」とのこと。 「旅人を大切にせよ」と<コラーン>にあるから、あのもてなしはムスレムの義務だったのだそうだ。
日本の京都の<ぶぶ漬>も同じ話である。 家人がぶぶ漬(お茶漬け)を勧めてきたら、客人は一旦これを固辞し、少なくとも二回断っても、まだ勧めるようだったら有難く頂く。 遠慮なく真に受けると、「厚かましい人」の烙印を押されるという京の文化の喩えである。 最近は、この<ぶぶ漬いかが>は、本音を隠す婉曲表現として進化してきて、「今日はぶぶ漬しかおもてなし出来ないから、改めて又来てくれ」「もうお帰り下さい」との表現だとされている。
このアラブの遠慮作法には、京言葉の喩えよりもっと深い哲学があるというアラブ学者がいる。 砂漠でのもてなしは、相手が旅人であろうと、敵であろうと、最大にもてなすのは神との約束であり長年の習慣である。 しかし、もてなしを受ける旅人側にも一定の規範を備えるべきとされている。 つまり、もてなされる水が最後の一滴だとしたら、それを見抜いて辞退できる人格が求められる。 家人と客人お互いが遠慮しあう作法は、こうした状況判断のための時間であるという。
アラブ特有の旅行者向けの親切に出会うと、われわれはこんごの友好関係はうまく行くと簡単に信じてしまいがちだ。 だが、相手が旅人なら返礼を期待しないが、商売の取引先となるとギブ・アンド・テイクは当たり前、アラブ式現実主義・合理主義がはっきり出てくる。 「昨日の友は、今日の敵」という急激な状況は、珍しくないアラブの世界である。
「敵には一回、味方には千回注意せよ」
アリは、アラブの諺をどれだけ諳んじているのだろう。
YSKC 取締役 室 井 常 正